【ブログ更新】 語り日記シリーズ×8 + 旅の全データ

  1. 2008/10/17(金) 23:33:45 
  2. カテゴリー:★ブログに関する話 
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旅を終えての振り返りの意味を込めて
語り日記(←日記のカテゴリーの名前)を
8つアップしました!!

また、既に先日アップ済みですが、
旅の全データもアップしているので、それもお見逃しなく。



自分でも思うけれど、本当に長文・・・
それだけ、言いたいことがまとまっていないということだけれど
それもまぁ、若さということで、いいんじゃないでしょうか(笑)


というわけで、ひとまず、語り日記シリーズもアップし終えたので
このブログとしては、一段落した形となります。

次の更新は、このブログ上になるのか、
はたまた、別のブログを立ち上げるのか分かりませんが、
何らかの形で発信していこうと思っています。


とはいえ(?)まずは、
この、とんでもなく長い文章を、お暇なときにでも
読んでみてくださいねー(笑)

自分で言うのも何ですが、
旅の最中の日記に掲載している写真も
確かに、よく撮れてると思いますので(笑)



あと、余談ですが、
せっかく世界一周の旅から帰って来たのに
友人・知人と再会しても、旅の話が出来ないまま終わる・・・という
ケースが多発してました(涙)

これ、なぜかというと、
写真がその場で見せられなかったことも要因だと気づきました。

パソコン上にデータはあるのですが、
さすがにノートパソコン上で全ての写真を見せるわけにもいかず、
どうしたものか・・・と思っていたのですが、
仕方ない・・・結局、気合で写真プリントをすることに!

計22280枚の写真から、1053枚の写真を選び出して
写真プリントを注文!

そして、4冊の写真アルバムに分けて入れて
ついに、人に見せられる状態が整いました・・・ほんと大変(笑)

今後再会する人がいたら、
写真を見せられるので、お楽しみにー!


では!

「旅と人生、そして幸せについて」

  1. 2008/10/17(金) 09:09:41 
  2. カテゴリー:★語り日記 
  3. コメント数:0
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「人生とは旅であり、旅とは人生である」と言った人がいるけれど、
僕も、それはその通りであると思う。


では、ここでいう「旅」とは何だろうか?

僕が思うに、旅とは、人それぞれの形があると思うが、
個々人が考える「幸せ」を最大限感じられる環境を生み出すための活動と考える。

ややこしい話だが、
要は、生きてるからには誰もが幸せのほうが良いだろうし、
幸せを得るために活動すること、それが、旅であり、人生であるということだ。


僕は、自分の生きる目的を
「一度だけの生を与えられた限りは、
 自分の、そして周りの多くの人の人生を豊かにするため」
と考えているが、
ここで言う「豊か」とは、
分かりやすく言えば、「幸せ」ということになるだろう。


もちろん、周りの多くの人の人生について
好影響を与えられる存在になれればそれに越したことはないが、
まずは、自分自身が幸せを感じること、
そしてより大きな幸せに向かっていくこと、
それが何よりの原動力になるだろう。

ただ、ここで一つ前提として大切なことは、
幸せになるためには、自分の幸福感を把握しておくことだろう。

自分がどういう時に幸せを感じるのか、
どうなればもっと幸せを感じられるのか、それが把握出来ていないと、
何をしたら良いのか分からなくなってしまう。


なお、極論から考えると、
僕が考える最も幸せな状態とは、
「今、この瞬間、いつ死んでも良い」と思える状態にあることだと考える。

その状態が、日常から続くようにすれば、これほど幸せなことは無いだろう。

言い方を変えれば、結果ではなく、プロセスに意味を持たせ
そこに楽しみを見出すこと、幸せを感じること、
それが一番重要なキーワードと言えるだろう。


また、松下幸之助さんは、
「幸せは、その時々によって変わる」と述べているが、
その意味においては、人生を歩んでいくにあたり、
定期的に、自分にとっての幸せを見つめなおすことも必要になるだろう。

また、相田みつをさんは、
「しあわせはいつも じぶんのこころがきめる」と書いたが、
まさにその通りで、幸せというのは、自分の捉え方次第でもある。


心の持ちよう次第で、白紙の人生に
自分の好きな色を塗っていくことが出来るということだ。


では、僕にとっての「幸せ」とは、何だろうか。
これは難しい問いでもある。

なぜなら、この旅を通してずっと考え続けてきたが、
あまりに多くの人と出会い、その生き方を見てきたことで、
その価値観、人生観の多様性を知ってしまったためだ。

そこから、自分への落とし込みに関しては、
まだ途中段階と言える。


断片的に散らばっている自分なりの幸福感を拾い集め、
一つの軸に育てあげていく必要があると考えている。

しかしそれは、頭でずっと考えていても答えが出ないこともでもある。
歩きながら、探りながら、それを組み立てていくこともであるからだ。

この先の未来は、誰にも分からない。
それは、様々な人間、
そして環境がそこに関わるために、変化が予測できないためだ。

しかし、人生の方向性を決めるのは、誰でもない自分である。


この先の人生も選択の連続であると思うが、
どの道を選ぼうとも、その軸に据えておきたい考えは、
「それが好きであることか、夢中になれることか」ということだ。


とある書籍の中に、
人間の幸せには「快楽」と「充足感」という二種類があると書かれてあった。

瞬間的に得られる快楽は、簡単に手に入りやすいが、それは一時的なものに過ぎない。
一方で、充足感が得られる活動というのは、その活動をしている最中は、
目標に対して時として困難にぶつかり、苦しいと感じることもあるもあるが、
それを乗り越えた際に、より大きな幸せが得られる活動であると言う。

であるならば、僕は、ここでいう充足感が得られる活動に
人生を歩んでいく上で、常に身を投じられればと思っている。


それこそ、1日24時間、365日、
それに没頭出来るような活動対象が見つけられたら、
全てのサイクルがうまい方向に回り始めると思う。

この旅の最中、スイスのバーゼルで知人のお宅に
お世話になっている際に、日本のTV番組「情熱大陸」や、「プロフェッショナル」の録画を
これでもかというぐらいに見させていただいたが、
全ての出演者に共通していたことは、
「それが好きだから、没頭出来るから」こそ、
人並み外れた活動を続けてこられたということだった。

まさしく、「成功をするためには、成功するまで諦めないこと」である。

そのためには、自分の心の活力が続く活動対象に身を投じるしか、
方法がないと思う。

また、活動対象を選ぶだけでなく、
自分自身の中における、幸せの軸=幸福感を、
見失わず、日々、思い出し、それが得られる活動を続けていく必要があるだろう。

そうでなければ、人間は弱いから、必ず途中で折れてしまうと思う。


人が世の中を生きていくうえで、
その選択肢は様々で、個々人が置かれた環境は十人十色だろう。

生きていると、人生を左右する選択肢は、常に僕らに付きまとう。


どんな生き方をするのであっても、
生きていくことは、そんなに甘くない。
それぐらい、生きていくために注ぐパワーというのは限りなく必要と考える。


僕は、世の中の仕組みは万能ではないと思う。

なぜ、ここまで生きるために必死にならなければならないのかとさえ、ふと思うことがある。
それでも、この世界に、この時代に生まれたからには、
生きていくために、やらなければならないことなのだろう。

であれば、「やる」しかない。

そして、「やるからには、とことんやる」しかないのだ。


・・・今、人生のシフトチェンジの時を迎えていると、自分で思う。
これからの人生が、本当のスタートになりそうだ。

とにもかくにも、ゼロからのスタート、
実行あるのみ!!

「生と死について」

  1. 2008/10/17(金) 08:59:43 
  2. カテゴリー:★語り日記 
  3. コメント数:0
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深いテーマを掲げてしまったのだが・・・
あえて、このテーマに関しても、旅を通して感じたことを述べたいと思う。


そう、「生と死」に関しては、誰しもが考えることだろうし、
そうしたことについて書かれた書籍も多数出ている。

しかしながら、別に僕は専門家でもなんでもないし、
そもそも、「生と死」に関する、答えなんて存在しない。


あくまで、僕が旅を通して感じて、至った結論なのだが・・・

「生と死」

これは、分かりやすく言えば「0か1、存在するか、しないか」の違いだけだと、
僕は思った。

「死は生と表裏一体」なんてことは良く言われるし、
それはそうだと思うんだけど、結局、分かりやすく言えば
「存在するか、しないか」だなと、僕は思う。


それを感じたきっかけは、
インドのコルカタで行ったマザーハウスでのボランティアと、
同じくインドのバラナシで見た火葬場だった。

人間、どんなハンディキャップを背負おうと、
生きているならば、そこに存在するならば、笑顔を浮かべることが出来る。
人に触れることが出来る。

マザーハウスの施設でお会いした人々は、
皆、心の中で笑っていたように思う。

そう、僕らが勝手に抱くような悲観的なイメージではなく、
実際にそこに行き、手を差しのべ、一緒に時間を過ごすことで、
その人達は、笑ってくれた。僕も、笑うことが出来た。

それが出来ること、それ自体が、生きているということ。

もちろん、心の中では笑顔になりきれない人もいるだろう。
でも、笑顔を浮かべられないことも、人それぞれの自由とも言える。

その自由が与えられているということは、
そこに「存在しているということ=生きていること」そのものなのだ。


もちろん、極論からすれば、
死を選ぶことも、人それぞれの自由。
死ぬことが出来る自由を持っているということは、生きているということ。

死んでしまっては、死を選ぶことすら出来なくなる。
そこに、存在していないのだから。

もちろん、僕は自ら死を選ぶということは、あってはならないと考えているが。
なぜなら、一度死んでしまったら、周りの人が悲しむだろうから。
そして、二度とこの世の中に生き返ることは出来ないから。

どうせ誰しもいつか寿命で死ぬなら、生きている間の時間を使って
再チャレンジしたほうが、「生」を楽しめる、まっとうできるんじゃないかと思う。

・・・そんなことを考えると、
今、こうして生きていること自体への感謝と、奇跡について
本当に幸せでありがたいと思うし、
「ああ、僕は今生きてるんだな。」と、改めて感じることが出来る。



ところで、この「生」の対極が「死」となるわけだが、
これはもう、前述の通り、「存在しない」ことに他ならない。

そう、存在しないのだから、どうしようもない。
自分ではなく、周りの人が亡くなったとして、どんなに悲しくても、
実在はしなくなるわけだ。

もちろん、気持ちの面では、
その人の魂が生きている、周りに存在すると思うことは出来る。

しかし、その亡くなったからの能動的なアクションは起こりえないし、
僕らからも、直接的な触れ合いは、出来なくなってしまう。

ただ、それだけが、「死」というものの、本質だと僕は思う。

結局、何だかんだいっても、死んだら、
そこで世の中からは、いなくなってしまうのだ。

実際、インドのバラナシのガンジス川のほとりで
人の体が火葬されていく光景を目の前で見ていると、
「ああ、死って、こういうことなんだな。」と思う。

人の死というのは、誰しもの目の前に存在することで、
人はいつ死ぬかわからないし、僕も、明日、事故で急死するかもしれない。

でも、一方で、人間、誰しもいつかは死ぬ、という思いがある。

目の前で、死体が焼かれていく光景を見れば、
それが鮮明に伝わってくる。

人間の体が燃えて灰になっていく光景を見ていると
何だか、死というのもが、とても身近に感じられた。

それほど、構えるものでもなく、大げさなことでもなく、
「ああ、人って死ぬんだな。あっさりしているな。」と、僕は思った。

でも、確実に、この世の中から物理的な存在が消えてしまうことは確か。

それが、死のもつ意味だと思う。

死んだら、何も活動出来なくなる。



・・・そんなことを考え抜いていくと、

僕自身としては、この旅を通じて「死」というものは、全く恐くなくなった。

それまでは、だんだんと老いていく自分が恐かったし、
それこそ、一秒一秒、死に近づいていくことが、恐くてしかたなかった。

何をしていても、「こうしている間に、死に近づいている」と、恐怖を感じていた。
それこそ、テレビを見ている時も、
「ああ、こうして2時間の番組を見たことで、2時間、死に近づいてしまった」と・・・。


でも、そんな想いは、旅を通して消えていった。

なぜなら、「だって、人間はいつか死ぬんだからね。」という、
シンプルな理由だからだ。

だったら、それを恐がっていても、どうしようもない。
そこには、たった、数年〜数十年の違いがあるだけ。

どうせ、みんないつかは死ぬ。ただ、それだけの話。

そう思ったら、全然、死なんて恐くなくなった。


もちろん、重病にかかってしまい、苦痛を伴ってだんだんと死に近づくのであれば、
辛い思いも伴うと思う。

例えば、癌を患ってしまい、それでも明るく生きて、
しかも、癌と戦う人などを見ると、本当にすごい精神力だと思う。

自分にそれが出来るかと言えば、とてもそんなことは出来ないとさえ思う。


でも、極力そうした要因を排除して考えれば、
死って、誰しも、いつかは訪れる瞬間であり、
終わってみれば、意外とあっけないものであったりもする、というのが、
僕の感じたことだ。

だから、死を恐れても、どうしようも無いと言える。
どうせいつか死ぬなら、
余計なことを考えずに、
生きている間を輝かせるために時間を使ったほうがいいのではないか、
単純に、合理的に考えると、そういう答えが出てくる。


それが僕の「生と死」に関する、旅を通しての結論だった。


生きていると恐怖がつきまとうことが、この先出てくると思うが、
思い出したいことは、
この日本という、世界的にもとてつもなく突出した、恵まれた国生きているということ、
そして、そこで五体満足に生きている(存在している)こと、
死を選ぶ自由を持っているということ、そういうことだ。

死を選ぶ自由を持っているということは、死にたければいつでも死ねる、
ということではなくて、そういう選択肢を持っている=人間として立派に生きている
ということを意味する。

つまり、どんなに困難であったとしても、
そこから人生をリセットすることも出来るし、
何より、生きてこの世に存在することが出来るからだ。

もし、命を失ってしまったならば、元も子もない。
人生をリセットすることすらできない。


また、もう一つ大切なことは、そうした自由を得られていること自体が
そもそも恵まれているということだ。

また、インドの話になってしまうが、
まだ身分制度が色濃く残っていると思われるインド社会において、
どんなに頑張っても、そこから這い上がれない人達は、本当に多く存在すると思う。

実際、僕は現地で通りを歩いたり、
リクシャー(人力車)の人達と接することで、その現実を見てきたが、
それは本当に凄まじいものだった。


コルカタの通りを歩いていると、
もう手足も十分に動かなくなった老人が地面に這いつくばって、
全身裸で、雨で溜まった水溜りの水を使って、
お風呂代わりにしていた。

それでも、体の汚れが取れることを喜んでいる表情のように、僕には見えた。


また、今日生きるための食事すらないのか、
道の隅で頭を下げて、ただひたすら念仏のように何かを唱えている老人もいた。
その体は痩せ細り、歩くことすら出来ないような姿であった。


・・・こうした現実を目の当たりにしてみると、
僕らが、この日本で五体満足に生きていることは、どれだけ恵まれていることだろうか。

「そんなことは分かってるよ。」という人がいるかもしれないが、
じゃあ、インドでそうした生活を送る人と、同じことが出来るだろうか、
みんな、そんなことは出来ないだろう。僕も、それは出来ないと思う。

だからこそ思うのは、
日本でどうなろうと、結婚相手と離婚しようと、自己破産しようと、
それは、とんでもなく恵まれた環境の出来事の一つに過ぎないわけであって、
それらを選択できる立場にあるだけでも、幸せだということだ。


どんなに頑張っても、身体面で、または身分差別を理由に、
路上生活から脱出できない人達、そんなインドの人達であっても、
生きたい、よりよく生きたいという想いをもって、必死に生きているではないか。

その人達を思うと、僕らが日本でおかれた現実を前にして
どんなトラブルに遭ったとしても、死を選ぶことは、いかがなものだろうかと思ってしまう。


いや、正直に言えば、
僕自身もそれでも恐怖が完全になくなったと言えば嘘になるかもしれない。
しかし、この旅を通してみた現実を思い出すことによって、
それを精神的な支柱として添えることができ、
また新しい一歩を踏み出すことが出来ると思う。


・・・話は脱線してしまったが、
だからこそ、僕は、生きているからには、生き続けようと思う。

人間誰しも、生きてさえいれば、
「死を選ぶことの自由」を持ち続けることが出来るのだから。

「恋愛と結婚について」

  1. 2008/10/17(金) 08:57:43 
  2. カテゴリー:★語り日記 
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これまた、大それた?(笑)テーマを掲げてしまったが、
これについても、旅を通して感じたことを、書き残そうと思う。


恋愛と結婚というのは、一つの線でつながったものと考えるが、
ここではあえて、それぞれ切り分けて話すことにしよう。


まず、「恋愛」について。


僕は、これまで生きてきた中で、もちろん人を好きになり、恋愛をしてきた。

その中で、幸せな時間を過ごすことが出来たし、
それに関して、後悔を感じたことは一度も無い。

しかしながら、一方で、恋愛が本当に必要なものなのか、どうなのか、
僕にはずっと疑問としての思いが出てきていた。


時間的に余裕のある学生時代ならまだしも、
社会人になり、1日16時間の激務が続いて、
彼女に会えるのは、週1日の休日のみ。

実際は、週1回会うことさえしんどいから、
2週に1回〜1ヶ月に1回なんてことになってくる。

しかも、会ったとしても、仕事の疲れが残っているし、
翌週の仕事の準備もあるから、まともに会えるのは数時間だけ。


そんな状況が続くと、
だんだんと恋愛をすること自体が負担になってくるように思え、
一方で、元気に余裕を持って彼女に接すること自体が出来ないことが、
苦痛にも感じられるようになった。

本当は、時間と体力、そして気力が十分であれば、
もっと楽しい恋愛が出来るのに、それが現実問題出来ない。

恋愛をしているということは、相手が存在することであり、
相手の人生の時間を共に使っていることになるわけで、
勝手なことをし続けるわけにはいかない。


・・・様々なことを考えると、だんだんと恋愛の持つ意味がわからなくなり
結局、「恋愛って、生きるうえで必要なの??」とも考えるようになった。

しかし、仕事を辞め、時間的な余裕がある中で、
旅を通して多くの人と接して、また、多くの人の生き方を見ていくと、
やはり、恋愛は、人間が生きていく上で必要不可欠なものなんだと、
考えを立ち戻らせることが出来た。


そのきっかけは様々であったけど、
分かりやすいものとしては、旅先で手をつないで歩く老夫婦の姿を見かけたことが大きい。

そう、人間は本来孤独な生き物で、
若い頃は良いかもしれないが、
いつしか歳を重ね
自分が生きることの面倒すら自分で看れなくなったら、どう思うだろうか、
きっと、誰しも孤独を感じるのだろう。

そのように、人生の先々を思うと、
「人は1人では生きられない」という、
当たり前のことに考えが立ち戻るのだった。


もっとポジティブな考えをするのであれば、
「1人よりも、恋愛相手と共に生きていくことのほうがより幸せ」ということも言えるだろう。

誰しも、「この人と一緒に過ごしている時間が幸せ」と思える相手が、
これまで生きている中で、必ずあったはずだが、
そうであるなら、その人と少しでも時間を共有できたほうが、
より幸せであるはずだろう。

それがまさに「恋愛」のもつ、
根本的な意味、力であると僕は考える。


恋愛の持つ力は、
決して、「1+1=2」ではない。
「1×∞」であって、その力は、計り知れないものがあるだろう。

自分一人では得られなかった感動や幸せが、必ず与えられるものだと思う。

また、何か大きな活動をしなければ与えられないものではなく、
ただ、その人と同じ時間を過ごして、目の前で話をするだけでも、十分幸せを感じられるだろう。

それぐらい、恋愛の持つ力というのは大きい。
それを、僕は旅を通して感じることが出来た。



生きているからには、不幸せよりは幸せのほうが良いし、
人間一人では生きていけないと思うと、
やはり、恋愛をしたほうが良いと思う。

それ自体が人生に何をもたらすのか、それは本人次第だが、
その存在(=恋愛)自体を否定することは、ナンセンスだと思える。



では次に、「結婚」というものは、どういう意味を持つのだろうか。

これに関しては・・・僕は旅を通して何度も考えたが、
結局、結論は出なかった。

物理的に考えれば、「結婚」というものは、
あくまで一つの形に過ぎない。

本来、結婚という形を取り交わさなくとも、
お互いに恋愛感情があれば、関係を持続することは出来るだろう。

ではなぜ、結婚というものが存在するのだろうか。


ただ、一般的に考えられること、僕自身も感じることは、
本当に好きで仕方ない相手が現れたとしたら、
誰しも、その人と永続的に関係を続けたいと思うだろうということだ。

それを、お互いに感じること、そして、約束すること(=誓うこと)が、
結婚のもつ意味合いになるのだろう。



・・・無駄に長々と書いてしまったが、
あくまでも、現時点での独り言、ということで、ここに書き残すことにした。


さて、さらに余談を続けると・・・(笑)


この旅を通して、再確認できたこと、
それは自分が恋愛、そして恋愛相手に求めることだ。

それは、紛れも無く「安心」だった。

この考えは、大学自体に至っていたものだったのだが、
改めて、自分が求めるものはそういうものなんだと、旅を通して気づくことが出来た。

恋愛に求めるものは、人それぞれ違うから、その良し悪しといったものはないし
そこに答えなどない。

ただ、自分が求めるものがはっきりしていないと、
恋愛に振り回されることになるだろう。

自分が理想とする恋愛が出来てこそ初めて価値ある恋愛が出来るわけであり、
その理想像が無いままに恋愛をすると、必ずバランスを崩してしまうだろう。

実際、学生時代の一時期の僕がそうだったが・・・。


それはさておき、僕が恋愛に求めるものは、「安心」であり、
それが得られる人を探し、得られる環境を作り出していくことが必要となる。

「安心」をさらに深堀して考えると、
大切な要素として「同じ感動を共有できる人」と、
「自分を応援してくれる人」ということが、僕にとって重要な意味を持つのだと分かった。

僕は、人間として未熟であると自分で思うし、そんなに強い人間でもない。
だからこそ、自分のパートナーから、元気をもらえるようなことでないと、
自分が持たないとも考える。

だからこそ、同じ物事に共感して、感動を分かち合うことで
「自分は一人ではない、孤独ではない」ということを実感していきたいのだろうし、
自分を絶対的に応援してくれる存在があることで、
日々、失いかける自信を取り戻して、また次に向かって歩き進む原動力を得たいと思うのだろう。

それが、結果として、僕が求める恋愛像となっていると考える。


また、もっと根本的に考えるならば、
「お互いを尊敬し合える人」であることが、
恋愛において必要であると、僕は考えている。

人間、生きていれば、環境変化もあるし、人間自身の価値観も多少なれど変化していくものだろう。
そこで大切なのは、相手を尊敬できるかどうか、ということだろう。
相手を尊敬できているのであれば、
そうした環境変化にも適応できるし、それを乗り越えて、
相手への無償の愛情を注ぐことも出来るだろう。

逆に、それがなければ、自分の考える理想を相手に押し付けるだけに留まり、
環境変化に影響されて、理想が満たされない毎日に不満が募り、
いつしか、崩壊への道を進むことになるだろう。


その全てを、事前にイメージできるか、もっと言えば、確信できるか、
それが、恋愛における大切なキーワードとなるように、僕は思う。


この先、僕は生き続ける中で、恋愛をしていくことになるだろうが、
この軸は、今後も変わらないと思うし、
それを得られる相手と、過ごしていくことになるだろう。


ただ一方で、完璧な女性などいないし、
世の中に存在する女性全てと出会えるわけでもないから、
生きている中で出会う人、または既に出会っている人の中で、
その理想に一番近い人を選んでいくことになるのだが・・・。

まぁ、何よりも理想を語るより、
まずは自分を磨くことから始めようか・・・(笑)

「次回、世界一周の旅のルート」

  1. 2008/10/17(金) 08:56:06 
  2. カテゴリー:★語り日記 
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僕の夢として、ここに記しておきたい。
僕はいつかまた、世界中を旅したいと思っている。

今回、1年間をかけて世界中を回ったが、
実際に行ってみると、さらに、次々と行ってみたい国や場所が増えていった。

そして気づいたのは、1年間じゃ、全然足りない、ということ。

今回も、本当に、掻い摘んだように、
世界を駆け足で巡っただけに過ぎない。

だからこそ、またいつか、さらなる大冒険をしてみたいと思う。



そこで、次回、どんな旅をしたいか、考えてみた。

それは以下の通り。

だいぶ大雑把だけれど、
まぁ、一つの夢としては面白いんじゃないだろうか。


ちなみに、5年間となると、相当なロングラン。

正直、今回1年間で世界一周してみても思ったのは、
旅の新鮮味が得られるのは、旅を始めて3ヶ月目ぐらいまでということ。

それ以降は、だんだんと旅をしていること自体が日常になってしまうのだ。

だから、この5年間で世界一周計画も、
時おり、日本に帰ってくるなどして、リフレッシュできる余裕があれば良いと思っている。

そのためには、予算に余裕を持たせることが重要・・・。


<以下、夢の世界一周(第2回)プラン>

【テーマ】
世界中を味わい尽くす!! 〜全てを切り詰める貧乏旅行は懲り懲り(笑)〜


【期間】
5年間


【予算】
1年400万円×5+予備500万円=2500万円


【ルート】
  
1) オセアニア ・・・ 6ヶ月 

まず、飛行機でひとっ飛び。
ニュージーランドとオーストラリアは現地で車を購入して周遊。旅を終えたら車を売却。
キャンピングカーにするのも面白そう。
その他、太平洋に浮かぶ小さな島々は船などを使って地道に移動・・・かな。
よく分からん、回り方が。その時調べよう。

  ↓

2) アジア ・・・ 1年3ヶ月

オセアニアの旅を終えた後、
インドネシアに渡って(その前にパプアニューギニアか)
そのまま北上して、シンガポール、マレーシア・・・
と思ったけれど、フィリピンとか、台湾とか
微妙に散らばっている島はどうしようか。
しょうがない、エアアジアとか使って、飛行機で飛び回るしかないか。

その後は、タイ→カンボジア→ベトナム→ラオスとかを周遊しつつ、
ミャンマー→バングラディッシュ→ブータン→ネパールと続き、チベットへ・・・
この途中で、南インドやスリランカも行ってみたいのだが、
インド人との衝突に気持ちが耐えられるかどうか(笑)
気が向いたら、行くことにしよう。

さて、チベットを抜けた後は、そのまま中央アジアへ。
全く未知のゾーンなので、どうやったらいいのか不明だが、
まぁ、全て陸続きだから、適当に国境越えしていけば、何とかなるだろう。

その後、西へ西へと進み・・・中東をちょっと通過して、トルコへ。

  ↓

3) ヨーロッパ ・・・ 6ヶ月

今回の旅で回れなかった、
ウクライナ、ベラルーシや
クロアチア、ボスニア、セルビア、モンテネグロ、
マケドニア、アルバニアなどを周遊したい。

でも、それだけだと6ヶ月も必要ない。
となると、ライアンエアーを使って
ヨーロッパに住む友人宅に行って、
久々に再会を果たすことにも時間を使いたい。

ちょっと飛び地になっている
スコットランド、アイルランド、アイスランドにも、
行ってみるかな・・・。

そして、最後は飛行機でトルコに戻ってきて、
今度は陸路で南下を開始。

  ↓

4) アフリカ ・・・ 1年

トルコ→シリア→レバノン→ヨルダン→イスラエルなどを経由して
エジプトへ。
カイロの「EL ABD」でアイスをたらふく食べた後、さて・・・どうしようか。
アフリカはその時々の政治情勢によって
入れる国とそうでない国があるだろうから、細かいルート選びは、現地判断。
大まかには、エジプトを基点に
東アフリカを南下。
途中、マダカスカルにも足を延ばす。
そして、南アフリカに到達。
その後は、西アフリカをひたすら北上。
この辺り、世界で一番過酷なルートと予想される。
死なないように気をつけよう。
そして、モロッコへ到達・・・。
マラケシュのフナ広場の屋台に行って、猛烈な客引きに嫌気がさした後、
ジブラルタ海峡を渡ってスペインへ。

今回の旅で行けなかった、
南スペインと、ポルトガルを見て回った後、
マドリッドからベネズエラのカラカスへ飛行機で飛ぶ。

  ↓

5) 南米 ・・・ 6ヶ月

ベネズエラからギアナ三国へ向かい、そのまま南下してブラジルに入り
その後、イグアスの滝を見てパラグアイへ。
その後、アルゼンチン。ちょこっとウルグアイを通ってから
さらに南下してパタゴニアへ。
で、ウシュアイアから念願の南極大陸へツアーで行った後
北上開始。
チリの海岸線をひたすら北上。
ボリビアのウユニ塩湖(雨季)を見て感動して
その後ペルー→エクアドル→コロンビアへ。
キトの安宿・スクレで働くホセが生きてたら、再会したい。

  ↓

6) 中米 ・・・ 3ヶ月

コロンビア→パナマ間の船による国境越えは危険とされるのに、
そこを無理に船で渡ろうとしてとんでもない目に遭った後、
パナマへ入国。
その後は陸続きに北上。
カリブ海に浮かぶ島国へは、
パナマ、グアテマラ、メキシコの何れかから飛行機で渡るなどして、周遊を。

  ↓

7) 北米 ・・・ 1年

メキシコからアメリカに入国した後は、これまたどうしよう。
北米、でかすぎる。

ひとまず、メキシコシティーからニューヨークに飛んで
車を購入してから、大まかに西方向へ移動しながら行くかな・・・。
ただ、オセアニアの旅で車を購入して周遊していたら、
もう車の旅に飽きている可能性もあるので、その時のノリで判断。
後は、風まかせの旅ということで。
まぁ、そのうち、西海岸に到着するだろう。
途中のラスベガスで大博打に出て、大損してネタ作り。
その後は、シアトルでイチローの活躍を見て(その時はもう、現役引退してるって?・笑)
カナダへ入国。

これまた、カナダも、でかすぎる。
どうやって回るかよく分からない。
とりあえず、イエローナイフでオーロラを見ることだけは忘れずに。
カナディアンロッキーの雄大な自然を見たら
アラスカに一気に飛んでしまっても良いかも。
一応、バンクーバーで、
世界中からワーキングホリデーで集まった若者たちにアドバイスでもしておくか。
で、フォアバンクスで、またオーロラ鑑賞を。

そして、最後に、
アラスカから行けるかどうか分からないけれど
北極に上陸。

そして、北極からは・・・
交通ルートがあるか分からないけれど、
ロシアの西部に上陸して、そのままシベリア鉄道で東へ。

その後、モンゴルに入り、中国まで南下して、
最後に台湾か韓国へ。

そして日本へ帰国。



・・・こうして、5年間世界一周の旅を終える予定。



【旅を終えた後の居住地】

次回の世界一周の旅を終えた後、どこに住むのか?
僕にもわかりませーん。

ただ、目標として、旅をしている間に
英語はネイティブレベル、スペイン語は・・・まぁ、日常会話には困らない程度まで
語学力を向上させるので、
それらが通用する国に住むのも悪くないかな。


一つの生き方の選択肢として、
PT(Perpetual Traveler)=永遠の旅行者という方法もある。

PTとは、
「ある国の居住者になれば、当然にその居住国で納税の義務が発生するので、
合法的に納税義務が発生しないように、六ヶ月や一年毎に、居住する国を替えて、
税務上どこの国の居住者にも属さない終身旅行者になること」
である。

この方法、ただ闇雲に放浪するのとは全くことなり、
かなりの経済力を蓄えた上でないと、実際は実現が難しい方法だが、
頭に入れておこうと思う。



【旅のお供】
基本的には、1人旅を予定しているけど、
その時、もしパートナーがいて、その人が賛同するなら、
お供として連れて行くかも(笑)

ただ、外国人のパートナーというのは、ありえないね。
日本人がいい。

でも、パートナーには、あんまり過酷な旅をさせるわけにもいかないし
いつもドミトリーに泊まるっていうわけにもいかないし、
結構大変なんだろうけどね(笑)


【出発日】
こればっかりは、いつになるか分からないけれど・・・
うーん、出来れば、40代のうちに出発したい。

それを目標に、生きていこう。

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